【上梓 2015.03.27】

新説信太狐

 ここは信太の 山麓 初冬(ハツフユ)の月 青白く
 天空高く 冴えわたり 浪花の海の 潮風に
 大樹の枯葉 舞い落ちる 薄の原は 白銀(シロガネ)に
 ひかりざわめく その中を たずね求める 野干(ノギツネ)の
 琥珀色した 眼の光 信太の森の うらみ葛の葉

阿倍保名(ヤスナ)が 和泉の国の信太大明神に 陰陽博士になれるよう その大願成就の祈願を終え 翌朝 近くの小川の辺で 秋の終りの風に吹かれながら  握り飯を食べておりますと 市女笠に垂れ絹の女人が近づいてまいります

阿倍野に参るには どの道が近う御座りまするか

わしも阿倍野の者じゃが どなたをお尋ねなさる

はい 阿倍野の保近様を……

左様なお方は知らぬ 見れば女の一人旅のようだが 急がねば 阿倍野に着くまでに日が暮れる 早く行かれるがよい

貴方様も信太のお人ではない御様子 昨夜 信太大明神の境内でお見受けいたしました 狩人(カリビト)に追われていた野干を助けてあげた御方かと…  あの 阿倍野の方に参られるのでは

わしか…… 別に急ぐでもなし……

お嫌でなければ ご一緒させて下さいませ 女の一人旅は ほんとに恐ろしい事ばかり……

女は杖を置き 保名の傍にしゃがんできます 喉から胸がしびれるような麝香(ジャコウ)の香りが満ちてくる 保名は握り飯を捨て 逃げるように歩き出すと  女もすぐ後を追ってきます 鳳を過ぎ履中帝の御陵に来た時は 太陽はもう真上にある 御陵の土手に腰を下ろし一休みすると 女も一軒ほど離れて座ります

そなたは阿倍野の保近様をどうして御存知なのじゃ

はい 私は葛の葉と申します 母は泉南の巫女でした 両親は先頃の疫病で亡くなり 残されたのは私一人 亡くなる間際母は私を呼び  阿倍野に保近殿という占い師がおられるが 保近殿の亡き妻は母の叔母に当たる故 母が亡くなれば 尋ねて行くようにとの遺言で御座います

 幼い頃に 身罷(ミマカ)りし 俤(オモカゲ)ひとつ なき母に
 姪がいたとは 不思議なる 縁(エニシ)の肩を並べ行く
 荒野も何時か 暮れなずみ 夕餉の煙 立ち込める
 住の江の里 通り過ぎ 阿倍野間近に なるにつれ
 足は引きずり 気も重く 小石に躓き 倒れ込む

あ! 大丈夫で御座りましょうか さあ この手にお掴まり下さいませ

麝香の香りが鼻にむせ返る

えーい

ああー

これは悪いことをした 大事はなかろうか

お力一杯の御打擲は か細い早乙女の胸には余りにもきつ過ぎまする

許して下され 悪気はなかったのじゃ ほんのはずみじゃ

いいえ そうでは御座いませぬ あなた様は葛の葉がお嫌いなのです さっきから幾らお話しかけても 御返事ひとつ下される訳でもなし  まして穢らわしいものを払い除けるような御打擲

わしがどうしてそなたを嫌おうか だがわしは見らるる通り 女人には好かれぬ面相 いや好かれぬ所か 怖れられ嫌われる化け物のような男じゃ  この顔は 我が父が息を引き取る間際に 薬缶(ヤカン)の熱湯を誤まって浴びてしまった為なのじゃ わしは女の傍によりとうない 寄ると煩悩の火が燃える  ただれた膿(ウミ)のような穢い火が…

それは余りにも御自分をいやしみ過ぎたお考え ほら 葛城の山の上に月が出ました 貴方様 傷の無い側のお顔をあの月に向けられませ  ほんとに なんと美しく リリしいお顔 今朝信太の杜で 葛の葉は そのお顔にふと心惹かれました 振り返られた時は 心足らずうろたえましたが  直ぐ お傷を受けられる前のお顔を 心で見詰めておりました 人の世の穢れを知らぬ早乙女ですが 葛の葉は まことの美と醜とを見分ける力は持ちまする

葛の葉殿とやら 言いそびれたが わしはそなたが尋ねる保近の子 保名じゃ 父はそなたの父母と同じく 先頃の疫病で黄泉の国に参った

まあ それは不思議な御縁 保名様 身寄りなき葛の葉を憐れと思召(オボシメ)さば 何卒お傍にお置き下さりませ

葛の葉殿 そなたがそのように思うておるのなら わしも異存は何もない

その前にお約束下さいませ 母の言葉によれば お父上保近様は占筮(センセイ)をなさっていたとの事 でも葛の葉は占が大嫌い もし夫婦になれば  占筮だけはなさらぬ事を

おお そなたの頼みでなくても 占など真平じゃ 今この時から保名の生きる目的は そなた葛の葉を愛する事に変ったのじゃ

 生駒の山に陽が昇り 保名は畑へ野良仕事
 葛の葉家で機を織る 日々幸せな時が過ぎ
 また巡り来る秋の風 人の噂も流れ来る

あの化け者のような男には勿体ない女子じゃ 昼も市から帰るのに出逢ったが まるで尊い女官のようじゃった 一体あの化け者の何処が良いのかのー

全く 世の中はままならぬものじゃ わしなどまともな顔を持っとるのに 嬶ときたら馬鹿にしくさって……化け者になって天女に惚れられるくらいなら わしもなりたいものじゃ

耳を澄ませて聞いていた 保名は鍬を振り上げて追っかけた! ……が、取り逃がし 凝然として立ちつくす

 父の遺言想い出し 陰陽博士叶うれば
 たとえ容貌悪くとも 妻に誇れる都人(ミヤコビト)

そなたが占筮を何故嫌がるのか わしには理解できぬ だがわしは 何時までも一介の農夫でいるのが嫌になったのじゃ そなたにも話した事があるかどうか 実は吾が家は  有名な遣唐使 阿倍仲麻呂公の血を伝える家なのじゃ

葛の葉にとっては 今の生活が最も楽しゅう御座います 何卒これ以上の事は考えて下さいますな

そちが楽しゅうても わしが楽しくないのじゃ 醜い農夫で一生を終えてなんとなる ……… おっ どうしたのじゃ しっかりせい

胸が痛い 貴方に打たれた胸が

わしがそなたの胸を ……気でも狂ったのか

貴方はお打ちになられた 一年前 貴方にお逢いして 初めて阿倍野に参る住の江の里で……

葛の葉 気の迷いじゃ 一年前軽く当っただけのものが 何故今頃痛む筈があろう

いいえ 気の迷いでは御座いませぬ 疼きまする 胸の奥の奥まで 貴方はもうお忘れなされましたか あの時の事を あの時の お約束を!

約束…… 占をしないという事か その約束か

思い出されましたか その約束を破られるという事は 貴方が最早 葛の葉に対する愛をなくされたという事……

馬鹿な どうしてわしがそなたに対し愛をなくそうぞ わしの眼 鼻 唇 手 足 それがバラバラに切り放されても その一つ一つは 世の中のどの男よりも  そなたを愛しようぞ 葛の葉 そちがそれ程申すなら 占の事はあきらめよう

このような事があって以来 葛の葉はいつも元気そうにしておりますが 顔には何処か暗い翳りがあり 安名はその気がかりを払拭出来ずにいた或る日の事  野良仕事を終え家路を急いでいる保名の耳に 道端の雑魚(ザコ)売りの老婆の声

干魚(ホシウオ)は要らぬか 干魚じゃ 干魚

要らぬ ええい 何度も言うな 要らぬと言ったら要らぬわい

良い気なものじゃわい あやかし者を女房に貰って

なんと言った わしの女房があやかし者じゃと

冗談じゃ

何が冗談じゃ さあ言え 何故あやかし者だ 言わなければこの鍬でお前の腐れ頭を叩き破るぞ

言う 言うから生命だけは助けてくれ 村の者はみんなお前の女房は狐だと言っておるぞ また物の怪だと言うとる者もおる 櫨(ハゼ)の小枝にとまっていた小鳥を手掴みにし  食べておったそうじゃ

なんじゃ そんな事か わしのような化け者が麗(ウルワ)しい女子(オナゴ)を女房にした故 みな 根も葉もないあくたれを撒き散らすのじゃ

いや そうじゃない わしも見た おぬしの女房が二間も飛び上って木の実を取るのを 悪いことは言わぬ なんぼ美しいからというて 物の怪を女房にしていたら今に……

だまれ くそ婆(ババ) この鍬でその口を叩き潰してくれるぞ

わあ 人殺し!

婆のくせに 逃げ足だけは速いやつじゃ

葛の葉が物の怪じゃと だがしかし 何故葛の葉は過去を話したがらぬ 何故葛の葉はあのような美(ウ)るわしい布を織る 何故葛の葉は占筮を嫌うのじゃ  このような醜い顔を持つわしに 何故葛の葉は愛情を持てるのじゃ

あのように囲炉裏端に坐り わしの帰りを待つ顔は いつもと変わらぬ だが もし今 わしが盗賊に身を変え 葛の葉を襲えば 妻はどうするじゃろ 盗賊に犯されても  妻は童女のような あのあどけない表情を変えないのであろうか

保名は手拭で顔を包み 障子を開け 素早く燈明を吹き消し 葛の葉に飛び掛った

おお なんと身の素早いことよ 葛の葉 わしじゃ 保名じゃ わしじゃと言うのに返事が出来ないのか

どのような訳で 今のような事をなされたのですか

たわむれの遊びじゃ 気にする事はない

いいえ たわむれの遊びでは御座いますまい 何時もの貴方には考えられないいやしいなされかた…

なにがいやしい おおそれじゃ言おうか 村人達はそちを物の怪じゃと言っておるぞ いや村人だけじゃない 不思議の数々はわしにもあるぞ そちの持つ麝香の匂いは  香りを付けぬ下人の匂いではない 漢書に 麝香の匂いを放つ女人は狐の化身だとある 今もそうじゃ 確かに掴まえたはずなのに煙のように掻き消えた身のこなし  それが人間のものか いやまだある そちは夫婦のちぎりにも子供のような顔しか出来ぬ 人間の女の情愛はそんなものではない筈じゃ まだあるぞ わしのような醜い顔の男を

ああ およし下さい わたしは もう

おお葛の葉 何をするつもりだ 井戸に身を投じるつもりか 待て 葛の葉 葛の葉わしが悪かった 許してくれ どうかしていたのじゃ

いいえ お許しを得たいのは葛の葉の方で御座いまする 貴方がさげすまれたように 葛の葉は狐のように賤しい学問のない無智な女です 物の怪の化身にお間違えなされたのも  私がいたらぬ故 死なせて下さりませ

ああ もうそんな恐ろしい言葉は止してくれ な この通りあやまる

じゃ もし葛の葉が さっき言われたように狐の化身であったなら

むむ そちが狐であろうと 貉(ムジナ)の化身であろうと そなたに対する愛に変りはあろうか

貴方の貴方に対する卑下は やはり貴方が学問によって身を立てねば 治らないかも知れませぬ 何時かきっと貴方は 葛の葉との生活より 学問の道をお選びになりましょう

そなたがわしの傍に居てくれれば 何を望もう 何にもいらぬ

 人の噂も何とやら いやいや気にせぬ日々が過ぎ
 また三年(ミトセ)目の秋となる 今年の夏の暑き事
 そのうえ疫病荒れ狂い 病苦の喘ぎそこかしこ
 盗賊都に跋扈(バッコ)して 物情騒然 世は乱れ
 陰陽師達の 祈願空しく また吹き来たる秋の風
 仲麻呂公の血を受けた 阿倍野に安名在りしかと
 訪ね来たるは都人 左大臣藤原実頼(サネヨリ)様の見し夢に
 白衣白髪の老人現われて そちこそ万古に比類なき
 陰陽師なるぞとのお告げ 今ぞ その才発揮すべし

葛の葉 喜んでくれ

お受けになられたので御座いまするか

勿論じゃ こんな吉運が二度とあろうか これこそきっと祖仲麻呂公の御威徳のたまものじゃ そちが反対なのは良く分かっておる だがわしの気持ちも考えてくれ  わしはそちに栄耀栄華をさせたい このままでは嫌じゃ このままでは余りにも情けない な わしの気持ちを理解してくれぬか うんと言ってくれぬか

仕方御座いませぬ

安名は狂ったように葛の葉を抱きしめますが 葛の葉の瞼から落ちた一露の玉が 月の光に琥珀の様に煌めいて落ちたのを 安名は気付いてはいません

夜が更け安名は 易を行なう為水垢離を取り 気を静めようとしますが 昂奮の為気はなかなか静まりません 納屋から鎌を持って来て  雑念をはらう為木の枝に小指をくくりつけ 切断しようと鎌を振り上げた その瞬間(とたん)

 雷鳴轟然と 天地を掻き乱し 小鳥飛び立ち 奇声を発す
 一陣の風凄まじく 安名の身体二三間 あっという間に吹き飛ばした!
 雷鳴続いて鳴り渡り 稲妻光り 辺りは一瞬の昼世界
 光は薄れ その後は 虫のすだく声も聞こえぬ静まりよう

いとしい吾が夫 最早身を傷められる必要はありますまい いよいよお別れの時が参った御様子 何時かは今あるのを覚悟しておりましたが  いざその時になるとあれやこれやお名残惜しく 胸も千切れそうに御座いまする 最早お気付きなされた事と思いますが 葛の葉こそ昔信太明神で貴方様に助けられた野干の化身  お助けいただいて以来何故か貴方が慕わしく 女人となり今日まで夫婦の交わりを結んで参りました次第で御座いまする でも貴方が一世一代心を込めた占をなさる時に  畜生が傍にいれば心眼乱れるは当然 葛の葉は今貴方のもとを去る決心を致しました お名残惜しさは尽きませぬが 何時まで未練を残してもせんない事 では いとしい吾が夫  さらばで御座いまする

葛の葉何処へ行く 待ってくれ!

恋しくば 訪ね来てみよ 和泉なる 信太の杜の うらみ葛の葉

 訪ね来ました信太山 初冬の月青白く 薄の原は白銀に
 ひかりざわめく その中に ついに見つけた 野干の
 喰い入るように 見詰めいる 琥珀色した 眼の光
 安名の心察してか ふと首を垂れ 眼より涙の ひとしずく
 その後安名に背を向けて 長い尻尾を揺すり行く
 憐れ 野干 哀しい宿命(サダメ) 我と我が身の淋しさに
 突如湧きくる 葛の葉に 狐に対する愛おしさ

待て 葛の葉 葛の葉よ 傍へ来て薄に切られたこの傷を そちの唇で舐めてはくれまいか 恐ろしい運命(サダメ)の二人じゃの!

思わず安名は野干を抱きかかえ 引き寄せようとした途端 安名の腕の中で煙のように掻き消えた

おお そちは葛の葉! またもや人間に化けて出たか

いいえ いとしい貴方様 最早葛の葉は野干の化身では御座いませぬ まことの人間の葛の葉で御座います ああどんなに嬉しゅう御座いますか  葛の葉は貴方の愛にお応え出来る身となりました その訳をお聴き下さいませ

 実を申せば葛の葉も 父母同様の疫病で 死ぬか生きるか その時に
 信太明神現われて 命欲しくば野干と なりて信太の 杜の守護
 果せば生かす とのお告げ 野干にされた その呪文 畜生として
 愛してくれる人間が 現われるまで 解けることはない

たった今 貴方は葛の葉を いやしい野干として 愛して下さいました

 それ故に 呪文は解かれ 葛の葉は人間に
 葛の葉の顔 今まさに 童女の顔は掻き消えて 恋に歓喜し
 情愛の 深くみなぎり 情炎に 濡れる熟女の 顔となる

 その後二人に生まれしは 阿倍清名(キヨナ)と名を名乗り
 花山(カザン)一条両帝に 仕えましたる天文博士
 その名天下に聞こえたる 阿倍野清明 誕生の
 伝説の一席 まずはこれまで





【 == 原作 黒岩重吾  脚色 芭俄梵信  (推敲:平成27年3月24日現在) == 】