ハムレット & ヴェニスの商人 |
誰しも思春期から青年前期にかけて、自己の外部に対する或る種の違和からくる何かの補償を求める かのように、自己の内的な世界を書物の中へ投影しようとする一時期があるのかも知れない。
僕の記憶の糸 を辿ってみても、確かにそう思われる時期があったようだ。僕の場合、工業高校だったので、3年生の7月 の初め頃、就職が内定してしまった。その後のごく短い期間がそうであったように想われる。
と言っても、 多くの書物を読んだ訳ではなく、漱石の「こころ」を吸い込まれるようにして一気に読んだ記憶がかなり鮮 やかに残っている、といった程度に過ぎないが。 読むことがすぐ心の慰安に繋がるといった時期の長短は環境に委ねられることであるが、人間の精神 の過程には不可逆な性質があり、そうした自己慰安の世界は一度通過すれば二度と返ってこないものである。 僕がシェイクスピアに出会ったのは、そうした精神の幸福な時期ではなく、先に述べたような、一冊 の書物の完読が非常に困難に思われる時であった。そして、数式をもって自然に向かう理科系の分野から、 人間の感情を問題にする文学の世界へと、自分の人生の方向を大きく転換する時期でもあった。 シェイクスピアの戯曲は、それ以前に読んだという記憶はない。チャールズ・ラムの「シェイクスピ ア物語」の訳本を持っていたところからして、彼になにがしかの興味を覚えていたことは確かなようだ。 恐 らく同時代の作家から槍(speare)を振るう(shake)奴、つまり槍持ちにすぎないと皮肉られる座付作者であり ながらも、彼の創り上げた作品世界が、あらゆる時代のあらゆる人の評価に耐え続けている、 といった話を 聞き及んでのことだったのだろう。しかし、更に進んで読んでみようというところ迄はいかなかった。そん な精神の余裕が持てない程に、自分に捕らわれ過ぎていた、と言い換える方がいいのかも知れない。 入学してすぐ自主講座に参加した動機の中に、英文学をやろうとしていてシェイクスピアを、それも 原書で読んだことがないとは恥ずかしい、という気持ちが強くあったことは否定しない。しかしそのことと は別に、 どんな書物でもいいから読み出したら必ず完読する、といったことをやらなければ自分はどうしよ うもなくなるかも知れない、という危機感のようなものがあった。シェイクスピアの作品ならどれでもいい から、 じっくりと時間をかけて読むことが大切なんだ、これ迄の自分は、大量消費時代の風潮よろしく、書 物をじっくり味わうことをせず読み捨てる傾向があったのではなかったか、得られるものを短絡的に目的と するのではなく、 何も得られなくてもいい、それに至る過程を重視することがその時の僕にとって急務の課 題となったようだ。 昼間働き、夜勉強するという二本立ての生活は、正直言って困難なことである。これは泣き言でも何 でもなく、事実、物理的にそうなのである。時間的に多くのことは出来ないのだ。だから二者択一の場面が 度々起こる。 僕の場合、入学した一年目二つの自主講座に参加したが、一つは夏休みで止めてしまった。ま た、同じ年の晩秋の頃、バイト先も辞め二ヶ月ほどブラブラしていたことがあった。こうしたことは僕にと って敗北を意味したが、 かろうじてシェイクスピアだけは読み続けられた。 一年目は「お気に召すまま」を読み、昨年は「ハムレット」をやってきたが、二年というまだごく短 い付き合いながらシェイクスピアという人間が何となく感じられる気がする。生活者としては、僕なんかの 及びもつかない程、 タフでヴァイタリティに富んだイメージがそれである。また人間を状況に於いて捉える 鋭い眼を持った人間ではなかったか、という感じもする。これはあくまで彼の二作品を通じて感じたことを 言ってみたまでであって、 本当はまだよく解ってはいない。 == 『シェイクスピアとの出会い』より引用 == |
ハムレット |
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… … … 聞け、聞け、ようく聞け。なんじ、もし、父を愛したことあらば―― ハムレット さては! 亡 霊 父が無惨にも非道にも殺害されたそのあだを打ち果せよ。 ハムレット 殺害とな! 亡 霊 殺害は如何にひいき目に見ても、道にそむいた悪じゃ。だが、これこそは最も暴虐非道の、ただならぬ殺害じゃ。 ハムレット 早く、早く聞かせて下さい。恋人たちが思いをはせるよりも早い翼を駆って、復讐へと飛び立ちますから。 亡 霊 それは頼もしい心がけじゃ。もしお前が復讐の挙に奮い立とうとしないようなら、物忘れ川の岸にのびのびと根を下ろして、馬鹿踊りをする 雑草よりも、よっぽど鈍いわい。さて、ハムレット、ようく聞けよ。わしは庭で昼寝の際、へびにかみ殺されたと発表され、デンマークの全国民の耳も、このような 虚言(ウソ)ですっかりだまされているが、じつは、お前の父をかみ殺したへびは、現に今、父の王冠を頂いているのだぞ。 ハムレット やっぱり、虫の知らせが当っていたか! 叔父めが! ポローニアス すぐさまお出でになります。では、きつくおっしゃって下さいませ。この頃の目にあまるおいたずらで、王様も大層御立腹、中に立たれますあなた様が、 お執り成しでご苦労遊ばす次第をお話しなされませ。私はここに身を匿(カク)しまする。それでは、突っ込んでおとがめのほどをくれぐれもお願い申しまする。 ハムレット (奥より) お母さん、お母さん! ガートルード 大丈夫よ、気遣いなさるな。早う退(ノ)いて、来たようですから。 (ポローニアス、カーテンの蔭に身を匿す) (ハムレット登場) 妃 ハムレット、お前は大層、おとうさんの御立腹を買いましたよ。 ハムレット お母さん、あなたは大層、ぼくのお父さんの御立腹を買いましたよ。 妃 まあ、まあ、そんなふざけた答をしてはいけません。 ハムレット おい、おい、そんな人の悪い質問をしてはいけないよ。 妃 まあ、ハムレット、そりゃなんです? ハムレット どうかなさいましたか? 妃 お前はわたしを見忘れたのかい? ハムレット とんでもないこと。あなたは王妃で、夫の弟の妻です。そして――残念ながら――ぼくの母です。 妃 それじゃ、誰か口のきける者を呼んで、お前と立ち会わせましょうよ。(出かける) ハムレット (妃の腕をつかむ)まあ、まあ、腰をお掛けなさい。じたばたしては相成りませぬぞ。ぼくがあなたの心の奥までも、鏡に写して見せますから、 それまでは出て行かせませぬぞ。 妃 何を乱暴するの? まさか、殺すつもりじゃあるまいね? あれ! 助けて、助けて! ポローニアス (カーテンのかげにて)おお! 大変だ! 助けよ、助けよ! ハムレット (剣を抜く)この胡散(ウサン)な曲者は? ねずみだな? そらっ、お手軽に息の根を止めてくれようぞ!(カーテンを通して一突きつく) ポローニアス (倒る)おお! やられた! ホレーシオ 気高い心の主がもう事切れた。ハムレット王子よ、静かにお休み。天使の群れは、音楽を歌いつつ、平和な天国まであなたのお伴をして 参りますよ。や、なぜあの陣太鼓はこちらへやってくるのか? フォーティンブラス、イギリスの使節たち、その他、正面奥の入口より登場。 フォーティンブラス その活劇のあったというのはどこだね。 ホレーシオ 何を見たいというのですか? 哀れ傷ましきものや驚くべきものが見たいのなら、捜し廻るにはおよびません。 フォーティンブラス (前へ進みて)この屍(カバネ)の山はさながら滅多無性の殺戮を宣言しているようだ。おごれる死神よ、なんじの館でどんな盛大なうたげが 催されようというのか、一撃のもとにこのように大勢の王侯貴人がかくも無残にほふられるとは? |
ヴェニスの商人 |
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公 爵 アントーニオは出廷しておるか?[小田島雄志訳 以下同様] アントーニオ はい、ここに。 公 爵 おまえには気の毒に思うぞ。なにしろ相手は石のような冷血漢、卑劣きわまる人非人、あわれみの情などさらさらなく、 慈悲の心もかけらさえないという男だ。 アントーニオ うけたまわりますれば、公爵にはあの男の苛酷なやりかたをおさえるべく、いろいろおほねおりくださったとか。にもかかわらず あの男はかたくなに意志を変えず、合法的な手段でその悪意の手をのがれることは不可能となりました。それゆえ私は、忍耐をもってあの男の 怒りに対し、平静な心をもってあの男の残忍、暴虐の嵐に耐えようと、すでに十分覚悟はできております。 公 爵 だれか、あのユダヤ人を当法廷に呼び出せ。 4幕1場 われわれもおまえのやさしい答えを期待しておるぞ。 シャイロック 私の意向はすでに公爵に申し上げたとおりです、私どもの聖安息日にかけて誓いましたことゆえ、証文どおりの抵当をちょうだいしたいと思います。 それはならぬと仰せになるなら、公爵の特権も、ヴェニスの自由も、無事ではすまなくなりましょう。わけを知りたいとおっしゃいますか、なぜ私が三千ダカットの 金を受けとらずに、一ポンドの腐れ肉をほしがるのか? そのお答えはむずかしい。私の気まぐれゆえと言えば、お答えになりますかな? おれは証文どおりを要求する。 公 爵 人に慈悲を施さずに神の慈悲を望めるだろうか? シャイロック 罪を犯さずにお裁きを恐れることがありましょうか? あなたがたはおおぜいの奴隷を買いとっておいでだ、そして牛馬同様、卑しい仕事にこき使ってらっしゃる、それと言うのも、金を出してお買いに なったからだ。ところでもし私がこう申しあげたらいかがでしょう、やつらを自由にし、跡とり娘のお婿さんになさっては? 汗水流しての重労働は かわいそうじゃありませんか? ベッドはあなたがたのと同じ柔らかなものにし、食事も同じごちそうを食べさせては? きっとあなたがたは、「奴隷は おれのものだ」とお答えになるでしょう、私の答えも同じです、私の要求する一ポンドの肉は高い金で買った私のもの、だからちょうだいするのだ。ならぬと 仰せになるなら、法律も糞もないことになる! ヴェニスは闇だ。ぜひともお裁きをお願いします、さあ、お答えを、お答えを聞かせていただきましょう。 4幕1場 公 爵 アントーニオ、シャイロック、前へ出るがいい。 ポ ー シ ャ おまえがシャイロックか? シャイロック シャイロックです、私が。 ポ ー シ ャ おまえの要求している訴訟は奇妙なものではあるが筋は通っている、したがってヴェニスの法律もおまえのやりかたをとがめることはできない。 つまり、商人、おまえのいのちはこの男に握られているわけだ。 アントーニオ この男もそう申します。 ポ ー シ ャ 証文は認めるのだな? アントーニオ 認めます。 ポ ー シ ャ ではユダヤ人の慈悲をまつほかない。 シャイロック そんな義務があるのですか? ぜひうかがいたいもので。 ポ ー シ ャ 慈悲は義務によって強制されるものではない、天より降りきたっておのずから大地をうるおす恵みの雨のようなものだ。祝福は二重にある。 慈悲は与えるものと受けるものとをともに祝福する。これこそ最高のものが所有しうる最高のもの、王にとっては王冠よりもふさわしい王者のしるしだ。 王の手にする王笏(オウシャク)は仮の世の権力を示すにすぎない、つまりそれは畏怖と尊厳を誇示する表象であって、そこにあるのは王に対する恐れの念でしかない。 だが慈悲は、この王笏による権力支配を越え、王たるものの心の王座にあって人を治める、つまりそれは天にまします神ご自身の表象なのだ。したがって 地上の権力が神の力に近づくのは慈悲が正義をやわらげるときだ。だからシャイロック、おまえが正義を要求するのはわかるが、考えてみろ、正義のみを求めれば、 人間だれ一人救いにはあずかれまい。そこでわれわれは慈悲を求めて祈る、その祈りそのものがわれわれに慈悲を施せと教えているのではなかろうか。こういう 話をしたのもおまえの要求する正義をやわらげようと思えばこそだ、だがぜひにと言うなら、きびしいヴェニスの法廷はやむをえずこの商人に 不利な判決をくだすことになる。 ポ ー シ ャ 商人にはその金を返済する能力がないのか? バッサーニオ いえ、あります。私が彼のかわりにいまここで返済すると言っているのです。それも二倍にして、いや、それでも不足だと言うなら十倍にしてでもいい、 私の手を、首を、心臓を抵当にして必ず支払います。それでもなお不足だと言うなら、この男を動かすのは正義ではない、悪意ということです。お願いします、 このたびだけは職権をもって法をまげてください、それは大きな善をなすための小さな悪にすぎません、この残忍な悪魔の意志をねじ曲げることですから。 ポ ー シ ャ それは許されない、このヴェニスにおけるいかなる権力をもってしても、定められた法をまげることはできないのだ。それが記録されて前例となれば、 それにならって次々に不正が生じ、国の乱れのもととなろう。そういうことはできない。 4幕1場 4幕1場 シャイロック はい、これです、博士様、これが証文です。 4幕1場 シャイロック 誓いはどうなります、誓いは、私は天に誓ったのです。誓いを破る罪を私の魂に負わせろと? とんでもない、 ヴェニス一国と引きかえでもおことわりだ。 ポ ー シ ャ なるほど証文の期限は切れている、したがってシャイロックが商人の心臓近くの肉一ポンドを切りとりたいというのは法的に正しい要求だ。 だが慈悲をかけたらどうだ、三倍の金を受けとり、この証文は私に破らせてくれ。 シャイロック そこに書いてあるものを支払ってもらったら破いていただきましょう。お見うけしたところなかなかりっぱな裁判官様だ、法律はよくご存じだし、 その解釈もしっかりしていらっしゃる。まさに法律の柱石っておかただ、その法律によってどうかお裁きを願います。私は魂に誓って申しますが、どんな人の 舌も私の意志を変える力はもっていません、私はあくまで証文どおりであることを要求します。 アントーニオ 私も心からお願いいたします、法にのっとってお裁きくださいますよう。 ポ ー シ ャ となれば、いいか、おまえはその胸にナイフを受ける覚悟をせねばならないぞ。 シャイロック ああ、りっぱな裁判官様だ! お若いのにお偉い! ポ ー シ ャ 法の趣旨にのっとて見れば、どこから見ても、この証文に明記されている抵当のとりたては正当なものと認めざるをえない。 シャイロック そのとおりだ。ああ、なんて賢明な、公明正大な裁判官様だ! お顔に似合わず老熟した分別をおもちのかただ! ポ ー シ ャ ではその胸を開けるがいい。 シャイロック そう、その胸だ、証文にそう書いてある、そうですよね、裁判官様? 正確に言えば「心臓にもっとも近いところ」だ。 ポ ー シ ャ そのとおりだ。肉をはかる秤(ハカリ)は用意してあるか? シャイロック ここにもっております。 ポ ー シ ャ シャイロック、おまえの費用で医者を呼んでおけ、傷口の手当てをしないと出血のため死ぬかもしれない。 シャイロック そんなことが証文に書いてありましたかな? ポ ー シ ャ 書いてはない、だからと言ってかまわないだろう、それぐらいのなさけをかけてやるのは当然の話だ。 シャイロック 見あたりませんな、証文のどこにもそんな話は。 ポ ー シ ャ アントーニオ、なにか言い残すことはないか? アントーニオ 別にありません、十分覚悟はできております。お別れの握手だ、バッサーニオ、さようなら。 4幕1場 ポ ー シ ャ その商人の肉一ポンドはおまえのものである、当法廷がそれを認め、国法がそれを与える。 シャイロック 公明正大な裁判官様だ! ポ ー シ ャ おまえは商人の胸からその肉を切りとるべきである、国法がそれを許し、当法廷がそれを認める。 シャイロック 博学な裁判官様だ! 判決だぞ! 覚悟はいいな! ポ ー シ ャ まて、あわてるな、まだ申しわたすことがある。この証文によれば、血は一滴もおまえに与えていない、ここに明記されているのは、 「肉一ポンド」だけだ、したがって証文どおり、肉一ポンド受けとるがいい、だが切りとるときに、もしキリスト教徒の血を一滴でも流せば、 おまえの土地・財産はすべて、ヴェニスの国法に従い、国庫に没収される、そう心得るがいい。 シャイロック それが法律ですか? ポ ー シ ャ 自分で条文を読んでみろ。おまえはあくまで正義を要求した、だからその正義を与えてやろうというのだ、おまえが望む以上に。 シャイロック じゃさきほどの申し出を飲みます、三倍の金額でこのキリスト教徒を許してやりましょう。 ポ ー シ ャ このユダヤ人が受けとるのは正義だけだ。さあ、肉を切りとる用意をするがいい、ただし血を流してはならんぞ。また、切りとる肉は 正確に一ポンド、それ以上でも以下でもいけない。かりに一ポンド以上、または以下の肉を切りとれば、たとえその軽重の差が一ポンドの千分の一、いや、 そのまた二十分の一にすぎなくても、とにかく、秤(ハカリ)が髪の毛一筋ほどの傾きでも見せたとすれば、その身は死刑、財産はことごとく没収することになる。 4幕1場 ポ ー シ ャ 待て、ユダヤ人、当法廷はまだおまえを退出させるわけにはいかん。ヴェニスの国法は次のように規定している、ヴェニス市民にあらざるものが、 市民に対し、直接的にせよ、間接的にせよ、その生命を奪わんとした場合、犯人の財産の一半は生命を狙われた市民の所有に帰し、他の一半は国庫に収めるものとする、 なお犯人の命は公爵の裁量のみにゆだねられるものとし、何人もこれに発言することをえず―― いいか、シャイロック、いまのおまえの立場はこの条文に 該当しているのだ。なぜならおまえは、明白な行為によって、直接的にも間接的にも、当被告の生命を奪わんとしたことが立証されている、したがっておまえは、 いま読み聞かせたような生命の危険をみずから招いたのだ。この上はひざまずいて公爵のお慈悲を乞うがいい。 公 爵 われわれの心がおまえといかにちがうか見せてやろう、おまえのいのちは乞われるまでもなく助けてやる、ただし、財産の半分はアントーニオの ものとする、残りの半分は国庫に収めるが、今後のおまえに改悛(カイシュン)の情が認められれば、罰金刑に減じることもある。 ポ ー シ ャ それは国庫の分だけで、アントーニオの分は別だぞ。 シャイロック いのちでもなんでもとるがいいや、助けてくれてもおんなじだ。家をささえる親柱をとるってことは家をとるってことだろう、 おれのいのちをささえる財産をとるってことも、いのちをとるってことだ。 |