平々梵述

★ 2009年 ★


 10月 

10月22日(木)  【未来への眼】
 若い頃の私にとっては、書くという行為(殆ど日記という形式で…)は苦悩からのカタルシスであり、それは単にカタルシスであるだけで真の解決とは成り得ず、それ故に書き続けざるを得ない毎日であったように思える。意識の混濁に対する鎮静と整理にはその瞬間には成り得たのだろうが、そこから先の未来への展望が生じず、虚しさの中で堂々巡りの日々でもあった。書いて書いて、書くことが何もないように思われても、何か得体の知れない不安や焦燥感から突き動かされるかのように書くことが日常と化していた。

 しかし本来書くという行為は、広く世間の中で生きていく人間にとっては、社会に対する何らかの主張や提案となるべきもので、未来への眼というものが内在されていなければならないものなのだろう。だが私は現在は勿論、過去においてもそれ程公的な地位に就いたことは殆どなく、家庭という対幻想の場にもなく、気楽といえば語弊があるかもしれないが、自由に気ままに自分の食い扶持だけを気にかけて生きてきたようなものだった。それ程強烈な個性ではないが、そこそこの個性で、自称個人主義を通して生きてきたのです、と言えるかもしれない。

 一年と少し前、還暦を迎え、会社組織の中で生じた人間関係のストレスから自らを解放する為に、残された五年間の嘱託の途を敢えて絶つことにした。体調への配慮もないではなかったが…。

 当初は、多少は何らかの意気込みがあったのだろうか…。野山を歩き自然に触れ雨が降れば書物を友とし趣味に生きる、いわゆる「林住生活」をする時期に入ったのだ。趣味に生き、自然に触れ、読書で感動したことなどを書いていこうと思った。そしてそれは実行されていった。……が、書くことは途中で途切れてしまった。何故か……。

 感動することが少なくなっていったようだ。或いは、本当は心の奥底で心が動いていたのに、そのかすかな感動を見過さないようにする、気の張りようを怠り、惰性に身を任せる日々を送ってきたからなのだろう。当初より近頃、何となく不安、何となく物足りない、そんな心の冷え込みを自覚するようになってきていた……。
10月23日(金) 
 昨日の朝は何となく気分がよかった。前の晩飲んだコンスタンという精神安定剤が効いたのだろうか。今朝はそれ程でもない。その薬の効き目についてはまだ何とも言えない。

 退職し人間関係から生じるストレスは無くなったが、一人暮らしからくるストレスは日々少しづつ蓄積してきているのだろうか……。しかし、気楽に話ができ愚痴などに耳を傾けてくれる人が近くにいたとしても、目に見えぬ心の内部にくすぶるストレスはその層を徐々に厚くしていくものなのだろう。その層が未来への眼を曇らせ、やがては見えなくさせてしまうのだ。

 齢を重ねるとともに人の身体は衰えていく。大勢の人が経験するという五十肩もその現れの一つだろう。

 右肩の痛みは昨年ようやっと治った!…と思いきや、すぐに左の肩! 一時は、例えば左手を後頭部に廻して右耳に触れることが痛くてできなかった…、のがやっと最近できるようになった。今年の五月の終り頃だったか、山を歩いていて突如蛇に遭遇、大の蛇嫌いの私は瞬時に身体が反応!、激痛が左肩および左腕を襲った……。治りつつある今となっては、それは可笑しくもあり懐かしい体験として思いだされる。

 五十肩から解放されそうに感じて、やや嬉しげな気分になりつつある…つい最近、突如左耳の違和感。気圧が急変した時に誰しも感じる、あの耳の感覚。風呂場で耳に水が入った時のブーとかボワーンとした異常感。スッと空気が通り通常に戻るやつ。あれがなかなか元に戻らない。本を読んだりして精神を集中させている時は感じることはないのだが、例えば何かものを食べて口をモグモグさせると、すぐに耳にきてボワーンボワーン…。

 それで病院の耳鼻科へ診てもらいに行った。左耳の軽い外耳炎症と診断され、最近よくくしゃみが出ると言ったこともあり、アレルギーを和らげる薬、淡を出しやすくする薬、それに中耳、外耳などの感染を治療する点耳薬を処方された。

 その日錠剤は、痰を切る薬は昼と夜、アレルギーの薬は夜、点耳は、昼前と、就寝前に二回。ところがその日の深夜2時頃に目が覚め、ぐるぐる回っているほど酷くはないが、フラフラしている。それにひどく汗をかいている…。しばらくじっと寝ていたが、汗が気持悪いので立ち上がり下着を着替えた。その後不安な状態の中、うつらうつらしながら朝を迎えた。耳の違和感は消えていた。

 薬の副作用ではないのか…。不安なので、昨日の今日また出かけて行った。主治医は昨日とは別人。発汗とめまいは点耳とは全く関係はありませんと明言された。体温と同じ位に温めて点耳しないとめまいを起こすことがあるから注意を…と注意書きにあったが、その医師が言うには、めまいは点耳後すぐに起こるものなので、貴方の場合は当たらないでしょうとのこと。その点耳薬は副作用を心配するほどのものではありませんよ、と若い医師らしく(?)返答は明快であった。その日の朝からずっと耳の違和感は消えていた。その先生の話の中で、自律神経失調症に当たるかもしれませんね、内科の先生に相談されてみるのも、これから先どうするかの選択肢の一つですねという言葉があった。

 私のフラフラ感への心配はもう四、五年前にさかのぼる。フラッとしてその場に立ち竦むが、十五分程度で何とか歩けるようになり、その後一、二時間で普通に戻る。このようなことは過去三度経験していた。病院に行き医師に診察を受け、そしてMRIの検査なども受けたが、病名は言ってくれなかった。その後テレビのニュースで、最近夜更かしなどの生活習慣の乱れから「起立性調節障害」にかかる若者が多く、朝フラフラして起き上がることができないということを聞いた。それは自律神経の乱れが原因であるということらしい。それで素人判断ではあるが、私の場合もそれに当たるのではないかと思っていた。それでその時、その若い医師の予測に我が意を得たような感じになったのである。
10月24日(土)
 あの深夜の突然の目覚め、発汗&ふらふら感の翌朝から三日間、処方されたアレルギーの薬も痰を切る薬も飲まず、点耳・耳浴も行なわずにすごした。幸い耳の違和感は消えていたからだ。だが四日目、また違和感を覚え始めた。薬を再開、点耳を(以前は寝る前だったのでそれは避け)散歩に出かける前(4時頃)に行なった。点耳による副作用を疑う気持ちはこの時は全くなく、耳に水が入った時のような違和も歩いているうちに徐々に薄らいでいったように思えはしたが、耳の違和感はしつこくつきまとって離れなかった。

 翌朝を迎えた。つまり一昨昨日の朝である。八時を少し過ぎた頃、突然フラッとする感覚に襲われた。やばい! 動けない、動いたら倒れてしまう、そんな不安感の中で凝っとしているしかなかった。朝ドラの映像は目に入ってくるが内容はまったく意に留まらない、そんな状態で約十五分が過ぎ、何となく動いても大丈夫なような感覚が戻ってきた。
 恐る恐る椅子から立ち上がり歩を進める。何とか大丈夫だ……。病院へ行く。内科へ。
 なんとはなく落ち着かない不安なふわついた気分で一時間ほど待っていたが、診察を受ける頃には、これなら大丈夫と思える通常の感覚を取り戻していた。自律神経失調症なのだろう……。一週間、この薬(コンスタン0.4mg錠)で様子をみましょう、ということであった。耳の違和感は今のところ無くなっている。何時まで続くことか…。
10月26日(月) 【心の目】から【未来への眼へ】
 耳の違和感は、先週の水曜日以来幸いにも再発しないでいる。昨日あたりから、少し変かなとの感じはあるが、ボワーンのボの先端が出かかってはいるが出口が狭すぎて出てこられない状態、ザマーミヤガレ!といったところか…。まあ、あまり気にしないことにしよう。

 精神安定剤の服用は生まれて初めてのことだ。少しは効いているのかもしれないが、はっきりとは判らない。しかし、初めて飲んだ翌朝、爽やかな気分の中にいた。あれ!…薬が効いたのかな、という思いであった。そして、何か書いてみたいという思いが自然と湧き起ってきたのだった。

 心の内部から自然とにじみ出てくるようなな思い、それを何か目に見える形あるものにしてみたいという前向きな思い、心が未来を視る目を開いた時に生じる感情のやわらかな流れ……。この心の目を大切にしていきたいと思う。

 心の目をゆたかに育んでいくことが、生きるということ…。そしてそれが個人が生きていくことの原動力となり、個人は社会の中で生きているのであるから、その心の目は社会性を帯びて、未来への理性の眼となっていくのだろう。
10月28日(水) 【浩然の気】
 今日病院へ行った。医師はここ一週間の様子を尋ね、身体の各所に聴診器をあて、寝台に寝かせ血圧を測定する。何処も異常ありません。薬は二週間分出しておきます、お大事に。診察はこれで終わり、となりそうなところで、訊こうと思っていたことを思い出す。確認の意味もあって…。自律神経失調症の原因は不明である。……やはり。

 昨日の昼過ぎ、少し変な状態になった。二十分位続いたろうか。講演を待つ三百人位の聴衆の中にいた。少し汗ばみ、のぼせている状態であった。話が始まり、しばらくすると、ふらふら感への不安は薄まり、話を聴けるようになっていった。
 今日は山歩きに出かけようと思っていた。が、患者さんが多く、病院から帰って来ると、もう昼前であった。今日は諦め、国会討論をテレビで観ていると、ちょっと変だ…、いや、気にするな気にするな…。気分転換に散歩に出かけよう!…。
 大泉緑地内を歩き出して十分もしないうちに、やっぱりおかしかった。やばいぞと思いながらも、歩き続けることはできる…。腹式呼吸したりしながら歩いて行くと、これなら大丈夫だという気になってきた。しかし不安感はおりのように心の何処かにこびり付いたままであった。

 あれは桜の満開の頃だった。場所はここ大泉緑地内。宿直明け、帰宅して、ちょっとして、花見に出かけた。土日ではないので人はあまりいなかった。急にふらふらっときて、歩けなくなり、桜の木の下に座り込んだ。西行の歌が思い出された。願わくは桜のもとにて……、なんてとてもじゃない、そのような境地には程遠い……。半時間位じっとしていただろうか、花びらの揺れ落ちる風情を楽しむなんてどころじゃない…、枝枝のその先にある、空だけが青く印象に残っている。

 病は気から、と言うではないか。先人達の知恵だ。東洋医学に学ばねばならない所だろう。細かいことに煩わされないように、心を大きく持つこと。そう、大自然の中へ飛び込んで、浩然の気を養え、ということか…。
10月31日(土) 【生命の気】
 いい青空だ。ここ数日、いい天気が続いている。体調は、昨日の朝より今朝の方がいい感じがしている。問題は午後を過ぎてどのようになるかだ…。神経質になり過ぎだ、よくない、とは思ってはいるが…。
 一昨日の神於山への登り初め、昨日の午後の散歩の初め、ふらふら感一歩手前の不安感に囚われた。神経質になり過ぎだ、と言われれば、そうなのだろうとも思う。歩けなくなったわけじゃなし、大丈夫だと自分に言える感覚がしばらくして戻ってきたのだから。昨日など、大泉緑地からの帰り、北図書館の前に設置されてある血圧測定器で測ってみて、1回目:127−76、2回目:117−76、との結果にほっとしている自分がいた。以前なら、あのような感覚は何度も経験しており、あんなに気にすることはなかったのに…。

 処方してもらった精神安定剤「コンスタン0.4mg錠」は、朝夕2回のところを夜だけにしている。主治医の了解もとってある。しかし、はっきりした根拠もないのに、朝も飲んでみようか…、等と思う心が顔を覗かせている。人間の心とは、いや、私の心は弱いものである。夜だけに決めたのは、よく眠れるだろう…との期待感による。それだけだ。決めたことは、コンスタンとに続けてみることにしよう。別に飲まなくてもいいわけだし、過去においては精神安定剤など飲んだことはなかったのだから。ただ、最初の1錠だけ、効いたと実感できる感覚があったことには少し驚いた。久し振りに爽快な気分で迎えた先週の木曜日の朝、このように、心の内面を言葉に綴ることがきわめて自然に再開できるようになったのだから。

 神於山を登っていた時、左の耳は熱かった。のぼせの状態だ。右の耳を触ってみた。むしろ冷たく感じられた。
 耳鼻科へ行ったのは、左耳の違和感からだった。口をもぐもぐさせた時、その違和感は強まった。今想うに、鼓膜に何か異物が付着していたのかもしれない。あのごわごわ感は物理的な要因によるのではないか…。点耳・耳浴で付着物が洗浄され取れたので、あのごわごわ感はそれ以後感じなくなっている。素人判断だが、自分の感覚からはそのような気がする。
 しかし、点耳の副作用があったのじゃないか、と今でも疑念を抱いている。自律神経が変調をきたすと、のぼせたり、発汗したり、個人差はあるのだろうが、そのような身体変調が生じるのではないか。その変調が生じ始めていた時に、点耳溶液がその変調を促進させ、あの夜のふらふら感、そして異常な(体温は正常(?)なのに…)びどい発汗となったのではないだろうか。

 自律神経失調にともなう眩暈や発汗は、言わば地球のマグマの噴出のような現象ではないか…。マグマの噴出による地震で、震度が高くなると被害が発生するように、自律神経の均衡がひどく崩れると、発汗や歩けないほどの眩暈が生じるのであろう……か。
 若年層に多く見られるという「起立性調節障害」は、生活リズムの乱れの蓄積が原因だ、とテレビでは報じられていた。
 東洋医学でいうところの、人間の身体の内部を流れるという「生命の気」、それは自律神経の働きとも大いに関係があるように思うのだが、その「気」について、近頃特に強く、気になってきている。
 11月 

11月2日(月) 【かみ&たま】
 先日、堺女性大学一般教養講座を聴きに行った。講師は生け花、青山御流の家元・園楽山という方で、演題は「心を映す鏡」となっている。卒業の為には何回かの受講が必須であることもあり、自分とは無縁な世界と思ってはいるが、この機会に耳を傾けてみることも悪くはないだろう、という軽いのりであった。
 最初は自分の身体の変調が気になり、話に集中できなかったが、三十歳代で家元を襲名し、指導する立場になってからの苦労話の中に、華道の道を究めようとする真摯な態度が感じられ、好感がもてる講演であったと言える。

 強く印象に残った言葉があった。「鏡からがをとると、かみが残りますね」……。とる「が」とは自我の、或いは我執の我であること。「かみ」は神であることが判ったとき、はっとする思いであった。それは、皇女和宮が鏡に映る自身の顔をながめたとき詠んだ和歌を紹介し、鏡に映った自身の顔に自己の内面の醜さを視、その恥かしさを詠ったのだという。この神は、明治の皇国史観の神ではなく、それ以前のもっと古い神様を指しているのだとも言っていたように思う。

 日本人は昔から、山を特別な思いでみていた。近くの山や森を「かむなび」と呼び、神様が鎮座するとし崇拝してきた。ここ数年来、野や山を歩いてきたなかで思い出してみると、奈良の三輪山がそうだし、一休さんの寺で知られる「酬恩庵」のすぐ近くに甘南備山がある。また平石峠を奈良から越えた所、河南町平石にある高貴寺&磐船大神社(明治の神仏分離令により分れた)が在る山は、山全体がご神体とされていたという。つい先日登った岸和田市にある神於山(コウノヤマ)は、神が於(オ)わす山ということで、これも「かむなび」山だ。

 生きるとはどういうことなのだろう。生命とはなんだろうか。
 大昔の日本の人たちは、弥生やそれよりずっと以前の縄文の時代の人たちは、自然を強く意識して生きていた。意識せざるを得ないほど強烈に自然は恐ろしく、かつまた恵み深いものとして感じられ、人びとの生き死にに強く関わりを持っていたであろう。山はあの世への出口であり、この世への入口として受感されていたのだろう。
 鏡の中に映る自己の姿を凝視し、自我を消し去ることができたとき、人は自己のちっぽけな力を超えた「かみ」の姿に出会えるのだろうか。「かみ」とか「たま」という日本の古い言葉には、相当深い意味が秘められているのかもしれない。
11月5日(木) 【内部視覚(エントオプティック)】
 一昨夜はなかなか眠られず、朝方になって夢をみて、やっと眠ったという感じを持つことができた。
 11時に床に就きトイレに起きたのが2時半頃、その後鼻が詰まり、それを気にしたりして依然眠れなかったが…、その頃には不安感は薄らいでいた。その後も眠りに入れず、目覚まし時計が3時半を指し示していたことは記憶にある。7時半頃に起床、朝食後、ふらふら感手前の状態にあったので、昨夜意識して飲まなかった薬を仕方ないかと思い思い…飲むことにした。そして8時半過ぎに、パソコンで吉本さんの親鸞に関する講演CDを聴きながら、また布団の中に入った。それが子守歌となってくれたようで、正午頃まで眠ることができた。起き上がってみて、体調は回復しているような気がした。
 3時過ぎ、いつものように大泉緑地へ出かけて行った。身体からは神経質になるほどの信号は感じなかったし、歩いていて気分はよかった。今週初めの木枯らしで、この人工の森にも急に秋が近づき始めたようだ。

 あの不安感は一体何だったのか。寝る前のテレビ番組の内容に反応して、我が心はいささかの興奮気味であったことは事実だ。こんな時はすぐには眠れない。体験上それは判っていた。しかし、眠りに入ることに抵抗している意識があることにも気付いていた。心はふらふら感手前の不安感の状態なのだ。時々目を開けて天井を眺める。目は回っていない。しかし…。このまま眠ってしまっては、ついこの前のような眩暈と発汗で起されるのじゃないかと…等と神経質になっていた。これじゃ、眠れる訳はない。

 最近見ることがなくなったが、数年前、眠りに入る前の浅い睡眠状態(レム睡眠だったかな?)で、けったいなものを見ることがあった。時には人の顔が現れてくることもあった。大きくなってきたり小さくなっていったり、常に動いているようで、消えてしまうがまた別のが現われてくる…。写真を見るように見ることはできないので記憶にとどまることは殆どないが、そんな映像を楽しんでいる時期もあった。それが現れると、すぐに眠りに落ちていったようだ。

 あの映像が「内部視覚」というやつなのであろうか…。中沢新一氏の書物の中に書かれていたことなのだが、人類の長い歴史の中で、人間の脳の中に新たな神経細胞が生まれ、流動性知性を獲得した頃のホモサピエンス・サピエンスが、真っ暗な洞窟の中で「内部視覚」を働かせて、人間を越えたものを見る儀式を行っていたという。人間は長時間真っ暗な状態の中にいると、視神経が振動を始め、暗闇なのに眼の内部から光が出てくるという現象、これを「内部視覚」と言うのだそうだ。

 あの眩暈・発汗時に、突如内部視覚が働きだし、しかも少し狂った形で溢れ出てきたのだろうか。眩暈の状態では誰しもあのような状態に陥るのであろうか。あの時は何か変なものが現れ、暴れだして、迫ってくるような気がして急に怖くなった。すぐ意識的にそんな映像を断ち切った。絶ち切れたということは、意識はしっかりと働いていたのだと思うのだが…。目を開けて天井を見ると、少し揺れているような感じがした。目が回っているのだと気づいた。それから汗をひどくかいていることにも気づいた。起き上がり、下着を替えることができるまで…、じっとしているしかなかった。その時間の長かったこと。起き上がるときは恐る恐るであった。着替えることができて、心は少し落ち着きを取り戻していった。
11月17日(火) 【自力 or 他力】
 8日から朝食後も精神安定剤を飲むことにした。6日に映画『沈まぬ太陽』を観たときの、あの異常とも思われる「のぼせ」を感じたことがきっかけだったかもしれない。
 あの御巣鷹山日航機墜落の場面(誰しも大きな心の動揺を覚える場面だろう…)から映画は始まり、それが私の場合、ふらふら感或いは強烈な眩暈に襲われるのじゃないかという不安感を煽り始めだしたようであった。映画は途中に休憩時間があり、それで心は少し落ち着き、最後まで観終えることができたのだが…。

 薬は効いているのかいないのか、飲むことによって安心感を得、余計な気遣いをすることがなくなるからなのだろうか…。6日の朝、服用しておれば、あのようなのぼせはなく、映画を楽しめたのだろうか。それは判らない。科学実験のように条件を違えて同時に試みることができないのだから。
 とにもかくにも、朝夕服用することにしてからは、心身ともに以前の状態に戻ったような気がしてきている。

 私にはできれば薬に頼りたくはないという思いが強くあるようだ。自律神経失調症と言われ、しかもその原因がまだはっきりと特定されていない病気ではないか…。しかし、それは自分の思い上がりではないのか、ここはひとまず医師の処方に素直に従おう、体調が元に戻ったと感じられるようになるまでは朝夕の服用を実行しよう、と思い直したのであった。

 昨日の朝、薬を飲まなかった。体調がよいと感じられたからである。しかし、昼食後に飲んだ。そのとき、思った。今夜は飲まないことにして、どうなるか試してみよう……と。そして、そのようにした。寝るときは、それほど意識することもなく、普段通りに床に就いたのだった。ところが2時半頃に目が覚めた。厭な感じがしたが、別に異常はないようだ。その後すぐに眠りに入ることができたようだが、眠りは浅く、いやーな感じの夢を見たようである。

 今朝、起き上がってみると、案の定少しふらふらする感じ。それで4日の朝と同じように、薬を飲み、また寝床に入り、12時少し前まで眠る。浅い眠りではあったが、起きてみると通常と思われる感じであった。
 精神安定剤には眠気を誘う効き目があるので、ここ数日は深く眠ることができていたのかもしれない。睡眠剤の代用として飲むことだ。そう思って飲んできたのではなかったのか…。

 自力で何とかしてやろうと思う心は、自助努力の精神は生きていくうえで大切だと思っている。しかし別の自分が言う、それは思い上がりではないか、と。そんな自我は捨てよ、と。自分の顔を鏡に映して、我を捨てよ、と。
 親鸞さんは自力を否定して、他力本願を旨とした。他力の境地に至る道のりは私にとって遥かに遠いと実感している。
11月25日(水) 【小栗街道】
 2年前、葛葉稲荷神社や聖(ヒジリ)神社を訪ねたり、また信太山丘陵の東端を通り泉北高速鉄道の光明池駅まで歩いたことがある。
 先日、和泉中央駅で降り黒鳥山公園を訪ねたが、その帰り、小栗街道を歩いた。母校である和泉市立信太小学校旧校門前で街道を離れ、JR阪和線北信太駅から電車で帰った。
 小栗街道という名は小さい頃から聞いて知っていた。しかしその名の由来を知ったのはつい昨年のことである。

 中世の説経節で語られ民衆に好まれた話を梅原(猛)さんが戯曲にした、『小栗判官』を図書館で興味深く読んだ。
 常陸の国(茨城県)に流されていた小栗は照手姫を見初めるが、結婚できずに殺されてしまう。が、地獄の閻魔大王に許されこの世に戻される(つまり臨死体験をする)のであるが、皮膚病にかかり、歩くこともままならない状態。旅の遊行僧が熊野の湯につかれば治るとお告げを受け、一計を思いつき、小栗を車に乗せ「この車を引く者には功徳が与えられる」という木札をつける。小栗は最初はその旅の僧によって、照手姫も小栗とは知らずに大津まで…、その後も民衆の手から手に助けられ熊野へと向かって行く。小栗街道というのは、そのとき初めて、小栗判官の熊野詣でへの道であることを知ったのである。

 この辺りは、私が小学校に入学する以前は泉北郡信太村と呼ばれていた地域で、今もまだ夏には江州音頭(ゴウシュウオンド)に合わせて盆踊りが、秋の祭りにはダンジリ(地車)が曳き回されている。私が生まれた上代(ウエダイ)地区には、当時ダンジリ小屋があって、そこが子供の頃の遊び場所でもあったが、ダンジリを曳いた記憶はない。しかし30年前頃に青年団が再結成され、ダンジリを購入、この地域の秋祭りには上代も、聖神社までダンジリを曳いて行くと聞いている。

 私がまだ小学校にあがる前のことだったと思うが、母方の叔母さんの家に泊めて貰ったことがある。叔母さんの家は小栗街道沿いにあった。その当時、盆踊りの最後の日は踊り明かすことが通例で、日の出前が最高に盛り上ると言われていた。それで、早起きしてそれを見に行こうということであったのだ。母がいたのか、姉も一緒だったのか、いや兄だけだったのか、記憶はない。でも、見に連れて行って貰えるものと子供心にわくわくしていたに違いない。
 朝、目を覚ました。外は明るくなっていた。置き去りにされたことに気づいた。悔しくて悔しくて、外に飛び出し大声で、ナンデオコシテクレヘンカッタ!と泣き叫んだ。このことははっきりと覚えている。
 その後、泣き叫んだことをよく揶揄された。その度に恥かしさを覚え、自分の感情を抑え込むようになっていったようだ。そんな少年が小学4年生となり、心が徐々にねじれだし、小学校を卒業する頃には何となく虚無感らしきものを自覚し、遊び仲間から孤立していった。そして、村的な感覚を嫌悪し、自分の中にもある感覚を自己嫌悪していったのである。

 盆踊りが行なわれていた場所の傍には池があった。その池は放光池というらしい。今はその池は埋め立てられ、放光池1号公園となっている。近くにいた小学生に訊いてみると、今でも盆踊りはこの公園で行われていると言う。ここは小栗街道の伯太北出口に当たり、その公園の片隅に、「住吉神社の境内にある『住吉の高燈籠』とともに大阪湾を航行する船に現在位置を知らせる灯台の役目を果たし」ていた古い(3百年前頃と説明されている)石燈籠がたっていた。

 その公園から小栗街道沿いに、八坂神社があり、聖神社(信太宮)拝前の鳥居があり、母校の小学校旧入口への石階段がある。ここまで徒歩約20分だった。そこから叔母さん(故人)の住んでいた家までは5分とかからない。しかし子供の頃の心では非常に遠い道のりと感じられていたのだろう……か。

 自分の生れ育った土地を愛せない人間は哀れなものである。父の死、続いて7年半後の母の死、あの世へ送るために、生れ育った村に帰ることは幾許かの苦痛を伴うものであった。がしかし、頑なに閉ざされていた心の扉が徐々に開き始める端緒ともなったようである。

 先日(11月7日)近くの金岡公園の運動場で堺市北区域交流まつりが催されていて、別段特別な思い入れもなく、ぶらりと見に出かけて行った。最後は金岡地区住民により盆踊りが披露された。皆さんが踊る輪の中の椅子のひとつに腰掛けて、櫓の上で唄う江州音頭に耳を傾けていると、微かに涙が湧き出してきて、心が揺れ動いているのを覚えると、急に気恥ずかしくなってきた。こんな精神状態じゃ、ふら感・眩暈手前の不安感が益々昂じていくのではないかと一瞬思い、そんな情感を抑えようとしたことを覚えている。

 しかし、戦後日本の急速な高度成長の過程の中で、地域内の、或いは地域間の人と人の繋がりが寸断されてきた中で、今もなお、このような盆踊りや秋祭りの伝統が受け継がれてきていることは、大いに喜ぶべきことではないだろうか。日本には古い文化伝統の歴史がある。そうした古い伝統の中に、日本再生の智恵が隠されているのではないだろうか。

 民衆に助けられ熊野へ向かう小栗の車を見れば、私とてその人びとの輪の中に入ろうかという気持ちが湧き起ってくると思いたい。故郷の地を思う気持ちの中にある、変なわだかまりが無くなりつつある心の状態になるには、いやはや、随分と歳月が経過したようである。
 12月 

12月3日(木) 【地デジ対応への波紋 == 私の場合 ==】
 インターネットへの接続をADSLにして5年と数ヶ月が経つ。グーグル・アースで地球上の各都市の航空写真を見ていると、動きが重く感じられ、フリーズすることが度々ある。しかしすぐに元に戻るし、頻繁に使用すこともないし、せっかちにならず要領を心得てやれば問題はないのだが…、ADSLではやはり重くなってきているなあ…と感じ始めている。

 デジタル化対応のためにテレビを買い換える必要があるので、それならパソコンをテレビ対応のに買い換え、ADSLから光回線にすればいいではないかと思っていた。今年の9月頃、OCN光フレッツが回線設置工事のことで調査に来ている貼紙があったので、我がHPもOCNなので、ケーブルがもうすぐ設置されるだろうと期待していた。

 そこで、どうなっているのだろうかと、今日の午後、いろんな所に電話をかけ確かめてみた。私が住んでいる地区の自治会長さんにも電話をいれ話を伺ってみて、工事認可がすぐに認められず、延び延びになっていることが判ってきた。そこには、行政の古い壁(?)が立ちはだかっているような気がした。早速、そのときの気持の勢いに乗って、大阪府のホームページにアクセスして、思いを述べることにした。
 私は府営住宅の住民です。現在ADSL回線を通じてインターネットに接続しています。この地域の府営住宅には現在既にA社がケーブル回線を設置しております。
 私は今すぐにでもADSLから光ネットへの変更を望んでいます。それならA社の回線を利用すればよいのですが、私のHPもメールサービスもB社を通じています。B社がこの地域に回線を設置すると聞き、期待しておりましたが、時間がかかっているようです。
 自治会長さんが言うには、B社の設置工事が認可される条件として、住民全ての同意を求めて来い、との事だったらしいのです。工事に騒音等々の迷惑がかかるのなら、それも理屈でしょう。A社が工事をした時にそのような迷惑がかかったのでしょうか? しかし私にはそうとは想えないのです。
 A社B社が競争することで技術力も高まり、消費者もその恩恵を受けることでしょう。
 是非とも迅速な対応をお願いする次第です。
 そうでなければ、「住民全ての同意」が何故必要なのか、明確なお答えを望みます。
12月31日(金) 【年越し】
 平成21年も今日で終わり、明日からはまた新しい年を迎える。
 今、ちょっと気を引き締めて、自分に対する義務という感覚を再認識したいと思う気持ちから、このようにパソコンに向かおうとしている。

 還暦を機に勤めを辞め、1年と半年が経過した。自分の思うようにぶらぶらと過ごし、来年からアルバイトでもよい、何か仕事を探し働こうということは想定内のことであった。
 ところが10月に入り、将来に対する確固とした展望や夢が想い描き出せないでいることに、微かな苛立ちと不安を抱き始めていた。それと軌を一にするかのように、自律神経失調症の現れであると思われる身体の変調に見舞われた。自分の健康面のことや、少し大袈裟に言えば自分の生死のことなど、大きく心が動揺する日々の中で、長く中断していたこの「平々梵述」が再開されたのである。当初、順調に書き続けられていけるように思われたが、また途切れてしまっている。
 これはしかし、悪い傾向だとして自分を叱責するほどのことではないと思っている。何故なら、体調が少しは元に戻り、自分の心の心底から何かを述べたい、表現したいという欲求が急に薄れてきているからなのである。何か感動が無ければ文は書けないし、何か訴えたいという強い熱情が無ければ、これもまた然りである。

 要するに、大切なことは自分の感覚を磨き、感動を心の奥底に起すこと、そして得られた心の動きを理性の網ですくい分け、訴えたいことと結びつけるように心がけることなのだ。
 来年も、この「平々梵述」のコーナーも豊かなものになるように、日々精進していきたいと思う。

 人生とは何だろうか…。生きるとはどういうことなんだ?
 宗教を信じる人にはそれぞれの教えに則した説明がなされるのだろうが、それ以外の人達には、どうしてこの世に生を受けたのかは解らない。しかし、この世に生まれてきたからには、たとえどのような道を辿ろうとも、生ききることが大切であり、そうでなければ人生の本当の深い味わい、仏教で言うところの醍醐味は決して味わえないのではないだろうか。
 このような気持ちを強く持って、年を越してい(生)きたいと思う。






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